インド建築ツアー<5> インドからバングラディッシュ、ダッカへ

チャンティガールでの怒涛のコルビュジェ建築探訪の次は、バングラディッシュの首都ダッカにあるルイス・カーン設計の「国会議事堂」だ。日も明けない早朝にチャンティガール駅を出発し、デリー、南インドのカルカッタ経由でダッカに向かう。しかし、デリーからダッカへの直行便はなく、遠回りだがカルカッタ経由となる。トランジットのための最低3時間は必要なインドの航空事情。飛行時間は合わせてせいぜい3時間ほどなのに、デリー空港、カルカッタ空港で途方もない時間を過ごす。免税店もカフェもない空港ロビーで、日本から持参した本を読むしか、することがない。結局、早朝にチャンティガールを出発して、ダッカのホテルに着いたのは日付も変わろうかという時刻。けれども、すぐにベッドでお休みはできない。なぜなら、私たち一行の到着を待ってくれていた、カーンの議事堂プロジェクトをサポートしたバングラディッシュの建築家たちとの懇親会が用意されていたのだ。ここまで来れば、体力と胃袋の限界への挑戦・・・でしょうか?

・・・しかしながら、建築巡礼者の面々は、映画「マイ・アークテクト」のクライマックスシーンだった朝靄に映る日の出の議事堂を確認するために、夜も明けない早朝にホテルを出発するという。私は当然ながら、ご遠慮させていただいた。

彼らに遅れること2時間ほど、胃袋の中に懇親会での食事が消化されずに残っているすっきりしない体調で、それでも朝8時頃ホテルを出発。一足先に議事堂に集結していた巡礼者の方々と、カーン設計の「アユブ病院」で合流する。カーンの建築は、今回アーメダバードの大学に次いで2度目。同じように幾何学的で赤レンガ造り。

そしていよいよ「バングラディッシュ国会議事堂」を訪問。皆さんはすでに「議事堂の日の出」を堪能された後だったが、私は初対面。人工湖畔に佇む威風堂々とした建物は、まるで古代の遺跡のよう。時空間を超えた圧倒的な存在感。今回のトピックスは外観だけでなく、内部に入れるということ。厳しい身体検査の後に、バングラディッシュ国民もめったに入れないだろう議事堂内部を見学する。

とにかく、スケールが大きすぎて、言葉が出ない。写真を撮ろうにも、撮りきれない。

カーンが設計し、64年に着工して完成するまで約20年。74年に亡くなった建築家は建物の完成を見ることが出来なかった。世界でももっとも貧しい国のひとつであろうバッグラディッシュの国民が、20年という歳月をかけながら、めげることなくこの建築物を完成させた。彼らにとってこの建物は、大きな誇りなのだろう。バングラディッシュの国民と老齢ながらアメリカからやってきた偉大な建築家に敬意を表します。

yasuko_india0502 yasuko_india0503 yasuko_india0504 yasuko_india0505 yasuko_india0506

インド建築ツアー<4> チャンティガールへ、その2日目

3月2日は早朝から、「建築学校」、渦巻状に成長する美術館構想のひとつ「チャンティガール美術館」、中央官庁エリアにある「高等裁判所」、「チャンティガール議事堂」、「美術学校」を訪問。

中央官庁エリアにある「高等裁判所」では、玄関に設けられた巨大な3本の塔状の壁が圧巻。それぞれ緑、黄、橙色に塗り分けられており、くすんだコンクリートの壁とのコントラストがすごい。その塔状の壁を眺めながら緩やかなスロープを登りきると、例の空中庭園が広がる。ブリーズソレイユは強烈な日差しを遮り、チャンティガール地方の乾いた風のみを建物内に取り込む。インドにあるコルビュジェの建物は、どれも粗いコンクリート仕上げであり、邸宅、学校、議事堂や裁判所などの権威的色彩の強い建物が多い。しかし、不思議なことだが、見学していると、フリッツ・クライスラーのバイオリン曲やモーツアルトのオペラ「魔笛」といった軽快な曲が聞こえてくるような錯覚を覚えた。なんだかウキウキと心が弾んでくるのだ。なぜなのだろうか?コルビュジェの建物は、音楽的で人間の身体感覚を呼び起こしてくれる何かが仕掛けられているようだ。

そして、いよいよ「議事堂」に。建築の専門家でない私はここでも妙なことに感心してしまう。それは、思わずワーッと見上げてしまう圧倒的な空間を構成する巨大なコンクリートの壁の所々に、「お魚」、「手のひら」といったレリーフが悪戯書きのように施されているのだ。それも子どもの絵のような素朴で単純な絵柄なのだ。コルビュジェさんって、なんてお茶目なんだろう。

このようにチャンティガールはまさにコルビュジェ建築巡礼の2日間だったのでした。

それにしても、半世紀前、今ほど交通機関も発達しておらず、インターネットもない時代、決して若いとはいえない年齢の建築家が、たった一人フランスからやってきて、何もないインドの荒野に都市を構想する。その都市が50年以上の年月を経て、多くの問題をはらみながらも、州都として歴史を重ね、人々の暮らしを支え、そして世界中から建築家や学生たちを引き寄せている。そして建物は、埃っぽい乾燥した北インドの大地に根を下ろし、その薄茶色の大地や強い日差し、乾いた風と共生している。たぶん、これから50年後も、これってすごい。

yasuko_india0401 yasuko_india0402 yasuko_india0403 yasuko_india0404 yasuko_india0405

インド建築ツアー<3> チャンティガールへ、その1日目

2日間のアーメダバード建築巡礼を終えた一行は、やはり飛行機の遅れから2月28日の真夜中に中継地であるデリーに到着。その5時間後にはデリー中央駅からチャンティガールに向けて、車窓の人々となったのであった。味わいのある車内。一等席だと朝食サービス付きで、乗客一人一人にお茶がサービスされる。私は隣席のインドのおば様の作法を横目で観察して、真似てみることにした。その方法は、まずポットからコップにお湯を注いて粉ミルクを溶かしてから、紅茶のティーバックを入れるというもの。日本だとお茶を出してから最後に粉ミルクを入れるのが普通だろう。けれどもインド流で入れたお茶はいつもよりもおいしく感じた。

電車に揺られて3時間あまり、チャンティガールの駅に到着。ポーターがご一行のたくさんのスーツケースをえっちらおっちら運んでくれている間に、そそくさと冷房のきいたバスに乗り込む。話題はコルビュジェによる都市計画と数々の建築群のこと。ホテルで昼食を終えると、休む間もなく灼熱のチャンティガール建築巡礼を開始。

チャンティガールは、1947年パキスタンがインドから独立した際に、旧州都がパキスタン側に割愛されたことを機に、パンジャブ州の新州都として1950年~65年に建設された。そしてフランスからコルビュジェが招聘され、チャンティガールの都市計画を行うことになった。コルビュジェは街全体を碁盤の目状に47のセクターに分け、それぞれ商業、教育、公園、住居など、機能ごとに区画を配分した。また、広い直線状の道路、各セクターには緑地帯を配し、理想のガーデンシティを目指した。そして、コルビュジェの構想から半世紀がたち、チャンティガールの今はどうなのか・・・

最初に訪ねたのは、街の北に位置する中央官庁エリア。1日目はチャンティガール合同庁舎。左右254メートル、高さ42メートルという巨大な壁のような建物を覆うのは、インドの強い日差しを避けるためのブリーズソレイユ。入館審査を終えた後、緩やかなスロープを登りながら、窓の外に広がるチャンティガールの街全体を眺める。外は目も眩むような強烈な日光、室内はブリーズソレイユによって日差しが遮断されて薄暗く、そのコントラストが建物の印象をさらに強める。コルビュジェにとっては屋上も大切な建築要素。合同庁舎の屋上にもさまざまな空間や仕掛けが施され、まさに空中庭園そのもの。

それから広大な公園のような中央官庁エリアの「開いた手モニュメント」「影の塔」を散歩。ホテルに戻る途中で街のはずれにある人工のスークナ湖畔にあるコルビュジェ設計「ボートクラブ」を見学して、長い巡礼の1日はようやく終了。

yasuko_india0301 yasuko_india0302 yasuko_india0304 yasuko_india0305 yasuko_india0306

インド建築ツアー<2> アーメダバード番外編

せっかくインドに来ているのに、コルビュジェとカーンの建築しか見ない?という不満解消のために、アーメダバードでは、この地方の代表的な建築物である井戸を見学することに。

アーメダバードのあるグジャラート州は乾燥地帯。そのためこの地の統治者たちは、飲料水確保のために多くの井戸を建設した。井戸といっても、穴があって、桶をたらして水を汲むといった簡単な施設ではなく、階段状に掘下げられた堅牢かつ華麗な装飾が施された建築構造物だ。

1日目に訪れたのは、1499年、イスラム様式で建設された「ダーダ・ハリールの階段井戸」。王妃ダーダ・ハリールの廟、モスク、階段井戸を組み合わせた、いうなれば公園墓地のようなところ。井戸は幅6メートル、長さが70メートル、深さ20メートルの規模。現在は井戸としては使用されていないが、地底20メートルの階段状の建物は涼をとる場として、周辺住人の憩いの場であり、子どもたちにとってはかけがえのない遊び場となっている。

翌日訪れたのは、アーメダバードから20キロほど離れた場所にある「ルダの階段井戸」、1502年の建設だ。先の「ダーダ・ハリールの階段井戸」が一直線なのに対し、こちらは3方からの階段が広場に集約されて、そこから井戸に向かって降りていくという建築物としても大掛かりなつくりとなっている。こちらはヒンドゥーの王妃ルダによって造られたので、華麗な細密彫刻が施された豪華な施設となっている。

ここはこの地方の子どもたちにとっては社会科見学の対象になっているのだろうか。幼稚園児から小学生、中学生くらいの子どもたちが多く訪れている。そして井戸底に集結して、構造物による声の共鳴を楽しみながら歌を歌っていた。この華麗な井戸は、単なる水道施設ではなく、今でも市民のパブリックスペースなのだ。

yasuko_india0201 yasuko_india0203 yasuko_india0204 yasuko_india0205 yasuko_india0206

インド建築ツアー<1> 東京ーデリー経由ーアーメダバード

この春、渋谷にオープンしたミニシアター系コンプレックスQ-AXで、「マイ・アーキテクト」という映画が上映され、建築界ではちょっとした話題となった。マイ・アーキテクトとは20世紀のアメリカを代表する建築家ルイス・カーンであり、映画の内容はカーンの息子が亡き父の足跡を辿りながら、その人物像を探るというもの。クライマックスは、カーンの代表作バングラディッシュの首都ダッカに建つ「国会議事堂」のシーン。

以前から、インド、バングラディッシュ、パキスタン、スリランカなど南アジアは是非とも訪れたい地域だった。ただ、初めてのインド、バングラディッシュがカーンとコルビュジェの建築を巡る旅になろうとは・・・。

2月26日、インド建築ツアーの一行は成田空港からデリー経由で、西インドにある古都アーメダバードを目指して出発したのだった。アーメダバードはジャイナ教の「非暴力の精神」に影響された、かのマハトマ・ガンジーがイギリスからの独立運動の拠点とした都市であり、また綿産業の拠点としても栄えた。1950年代に入るとその豊かな資金力から、ル・コルビュジェやルイス・カーンを招聘して、公共建築や富豪たちの邸宅が建設された。今回の建築ツアーの目的はこれらインドモダン建築探訪。

デリー空港までは順調だったが、アーメダバードへのトランジットでいきなり90分遅れ。1時間の飛行のために5時間近くも空港内で足止めをくらう。インドでは、乗り継ぎには最低3時間の余裕を取るのが決まり。アーメダバードに着いたのは真夜中だった。

27日の朝、疲れ知らずの面々は朝から濃厚なカレーを食し、いざ、コルビュジェの「サラバイ邸」へ。サラバイ家はアーメダバード有数の名門一家。コルビュジェ設計の邸宅は、サラバイ一族が所有する広大な敷地の一角にある。建築の考察は専門書にお任せするとして、インドの濃密な自然環境に融和し、50年代の生活様式がそのまま封印されたかのような空間で、今でも人が暮らしているという事実に感慨を覚えた。

続いて、街の中心を流れるサバルマティー河畔に建つコルビュジェ設計の「繊維業会館」を訪問。ドミノシステムの3層構造の建物で、インドの強烈な日差しを避けるためのブリーズソレイユが印象的。戸外と屋内が共存する開放感溢れる空間を通り過ぎる川からの涼風が心地よい。

ランチを挟んで、一番気温の高い3時頃、カーン設計の「インド経営大学」へ。広大な敷地に幾何学的な建物が連続性を持って配置されている。建物のスケール感、蜃気楼が見えるほどの暑さ、人気のなさ(暑さのために戸外に居れない)が、形而上絵画を始めたジョルジュ・デ・キリコの絵画のようだ。

他にも、コルビュジェによる渦巻状に成長する美術館構想に基づき、アーメダバード、チャンティガール、東京上野に建設された美術館のひとつ「サンスカル・ケンドラ美術館」、コルビュジェの弟子であり、後に自国に戻ってコルビュジェとカーンのインドプロジェクトを支えたインド人建築家ドーシのアトリエ「サンガス」、「ガンディー労働研究所」「H・D・グファ美術館」、外観だけだったがコルビュジェの「ショーダン邸」と、たった2日間に8つのモダン建築、プラス、2つの井戸を訪問。これは、建築巡礼の旅?

yasuko_india0101 yasuko_india0102 yasuko_india0103 yasuko_india0104 yasuko_india0105 yasuko_india0106

対極にある建築見ました<2> アルヴァロ・シザとレム・コールハース

カサ・ダ・ムジカ」を私なりに表現をすると「現代建築のテーマパーク」。建築に関わる方からはお叱りを受けてしまいそうですが、そんな印象を持ちました。

建物の中には大小2つのホール、そして音楽にまつわるさまざまなサービスルームが用意されています。外観は極めて単純な巨大なコンテンポラリーアートのよう。けれども内部はテーマパークのように現代建築の最先端が「これでもか!これでもか!」とてんこ盛り。こう感じるのは、この建物は、基本的に移動スペース(廊下、階段、エスカレーター)は意図的に狭く、そこを通り抜けると、ポルトの街が一望できるホワイエ、ポルトガルの名産アズレージョのタイルで埋め尽くされた休憩室、澄み切った青空を望む屋上、広がりのある空間が次々と展開されているからでしょう。川端康成さん流に表現するならば「狭いエスカレーターを上りきると、そこはポルトを臨むホワイエだった・・・」という風に、狭い空間、広い空間が自在に組み合わさっています。また各空間は、コールハースさんならではの心憎い、素材使いやディテール処理が施されているのですね。目が回るような建築的な仕掛けが組み込まれており、建築のグローバリゼーションのトップランナーたる作品であろうかと思います。

さて、次はシザさんです。シザ作品をすでに見学し終えた建築家の方々のご推薦により、まずは大西洋を臨む絶好のロケーションに建つ、シザさんも設計チームに参加したという初期の作品のレストランでランチをすることにしました。近くには、同じくシザさんによるプール施設もあり、2つセットだそうです。レストランはチームの仕事というだけあって、私が思い描いていたシザさんの作品というよりも、むしろフィンランドの建築家アルバア・アアルト風であるように思いました。でも建物も、料理も、ロケーションも、サービスも最高。また出かけたいなあ。プールは浜辺のランドスケープを上手く生かしたデザイン。万が一と思って水着持参で行きましたが、すでに水が抜かれていて、掃除の人が片づけを始めていました。

その日は、それから、シザも教鞭をとっているポルト建築大学、ポルト近代美術館を見るというハードなプラン。1日に5つもの建物を見るとなると、いくら楽しいと言っても、疲労困憊です。ただ、レストランも、プールも、大学も、美術館も、実にすばらしいロケーションの中にあって、白い彫刻のようなシザのミニマムな建物がすばらしく調和しているのです。空間もコールハースさんとは対極で、穏やかで、練られていて、時間とか時代を超越したような静けさに満ちています。

コールハースさんもシザさんも共に世界的な建築家ではありますが、ここに作り手の在り方の対極を感じたのでした。一人は、世界中を駆け回り、時代の価値や潮流を先取りし、リードする。もう一人はポルトという地方都市で、黙々と自分の世界を掘り下げる。でも、リージョナルであればこそ、逆にそれがグローバルな意味を持ってしまう。良く言われるグローバル/ローカルという話ではありますが、プロダクトや情報のように輸送ができない建築なだけに、こうした対比がより鮮明に伝わってくるわけです。そして、50年、100年という時が流れたとき・・・この対極的な建築は、未来に生きる人たちにどう受け入れられるのだろうか?などとも考えてしまうわけです。少なくとも、シザさんの作品は想像できますが、コールハースのさんのカサ・ダ・ムジカは、私の乏しい想像力を超えています。

そして次の日、ポルトから電車で1時間半、さらにタクシーを乗り継がないと行けない、シザさんの教会を見に行ったのでした。

0843yasu 0866yasu 0871yasu 0912yasu 0935yasu 0943yasu

対極にある建築見ました<1> アルヴァロ・シザとレム・コールハース

アルヴァロ・シザの建築を見たいという夫に同行して、ユーラシア大陸の最西端の国ポルトガルに出かけた。

はっきり言って、「デザイン見聞」と言う意味では、何の期待もしなかった。でも、何もないからゆっくりできたし、頭の中も空っぽになった。それに、どこも似たり寄ったりのデザインである東京では、決して出会えないような不思議なかたちや、何十年も変わっていないのだろうなと思わせるアールデコ調のカフェがあったりして、ゆっくり寛ぐことができた。ポルトガルでは、朝食からポルトワインやシャンパンが置いてあって、朝、昼、晩、寝酒と酒びたり?の1週間だった。こんな時、お酒が飲めてよかったなあとつくづく思う。

ポルトガルは大航海時代をピークに歴史の表舞台に出ていない。けれども、1543年にポストガル人が種子島に上陸して鉄砲を伝えてから南蛮貿易に至るまで、ポルトガルと日本の関係はとても深い。リスボン市内の美術館にはちゃんと「the Island of rising sun」の部屋、つまり日本の展示室があって、ここには南蛮貿易で持ち込まれた屏風や陶器が並んでいる。命がけの当時の交易を思うと感慨深い。

さて、今回の本命、アルヴァロ・シザは、槇文彦さん、安藤忠雄さんも受賞した建築界のノーベル賞、プリツカー賞も受けた世界的な建築家。但し、活動の場は、首都リスボンではなく、第二の都市ポルトにある。そこで、早々にポルトに移動。ここには、シザの建築に加え、最近竣工したレム・コールハースの「カサ・ダ・ムジカ」というコンサートホールがあり、建築界の話題になっているとのこと。この旅行に出る前に、コールハースの本を出版した友人の瀧口範子さんから「カサ・ダ・ムジカで何か聞いてくれば?」とメッセージを頂戴していましたが、残念ながら滞在中にコンサートはありませんでした。但し、見学ツアーというのがあって参加したところ、偶然ですがリハーサルには立ち会えた。

午前中の10時くらいにカサ・ダ・ムジカに着いて、お茶でもしようかと、中にあるカフェにいったところ、どこかで見た感じの日本人がいました。夫は良く存知あげているという有名な建築家ご夫妻でした。何でも、パリから日帰りで、この建物を見に、わざわざポルトまでいらしたとか・・・。加えて、シザの建築はすでにほとんど全部見終わっていて、いろいろ感想を聞かせてくださいました。私は常々感心してしまうのです。建築家と呼ばれる方々の執念と情熱を。地の果てまでも、僅かな時間を惜しんで建築を見て回る、あの根性。そして、「塀をよじ登っていたら、つかまった」とか「1日1本のバスを逃して、野宿した」とか「空間に見とれて、階段から落ちて怪我をした」とか、数々の武勇伝を聞くに及び、笑いすぎて顔の皺が何本も増えたのです。それと同時に、人生でこれだけ没頭できる対象があるって、なんて幸せなのだろうと感心もしてしまうのです。カサ・ダ・ムジカの見学の最中も、すてきな相棒に出会った夫は水を得た魚のように、某有名建築家と2人で嬉々として、建物を楽しんでいたのでした。

私は・・・というと、ポルトという街で、シザさんとコールハースさんという現代の世界的建築家の対極的な建築空間を体験できて、専門家ではなくても満足できる時間を過ごせたのでした。これが、ロンドンやパリ、東京といった現代建築博物館のような都市であれば、さまざまな空間的な刺激や情報が多すぎて「もうお腹いっぱい!」という感じですが、ポルトのようなヒューマンスケールの街であれば、「腹八分目」といった感じですね。

長い前書きとなりました。詳細は次回に。

y0808 y0812
y0821 y0842 y0904 y0981

建築家セドリック・プライスを追悼する「Doubt、Delight + Change」展

デザイン好きならば必ず訪れるロンドンのデザインミュージアムで、昨年夏亡くなった建築家セドリック・プライスの展覧会が開催されていた。タイトルは「Doubt、Delight + Change」。入口には、20世紀後半の革新的、先鋭的建築家のひとりであり、その建築と都市への働きかけにおけるアプローチは、リチャード・ロジャースやレム・コールーハースに至る現代最も活躍している建築家たちも大きな影響を与えている・・・というような説明がある。

展覧会自体は、デザインミュージアムの4Fの小さいスペース。リチャード・ロジャースやレム・コールハースにも多大な影響を与えた偉大な建築家の追悼展にしては質素だ。

私は、建築をしている夫から彼の偉大さや業績を聞かされていたから知っていたが、建築に詳しい人でなければ通り過ぎてしまうくらいのささやかな規模。会場には、立派な模型も、作品に仕立てられたドローイングもなく、派手なインスタレーションは一切ない。けれども、すっかり変色してしまった用紙に描かれたスケッチや図面には、彼の建築と都市の新しい関係の模索、時間や人間の行為に沿って刻々と変化する装置としての建築の可能性の探求、建築を空間という「概念」から人間か活動する「場所」へと変換させるための仕掛けなどなど、今では当たり前になってしまった構想が満ち溢れている。それでいて作家性、名誉や地位に頓着しなかったであろうプライスという建築家の人柄がありのままに表現されていた。1960年代、イギリスがビートルズに沸いていていた時代、建築の世界ではこんなことを考えていた人がいたんだ。

彼のさまざまなアイデアは机上で終わったモノが多いが、その思想は後のアーキグラムやスーパースタジオを刺激し、「FUN PALACE」プロジェクトはリチャード・ロジャース+レンツォ・ピアノによるパリのポンピドゥ・センターに受け継がれ、磯崎新さんは氏の著書『建築の解体』中で、FUN PALACE と1970年の大阪万国博覧会「お祭り広場」の構想との重なりについて記述するなど、未来の建築に対する示唆に富んでいたのだろう。

そんなセドリック・プライスの唯一という作品が、世界初の動物園「ロンドン動物園」の大鳥籠だという。これは見ておかなければと、1人14ポンド(1ポンドが約200円だったので、2800円ですね)という入園料を払って見に行った。ステンレス鋼やアルミニウム網を駆使し、張力ケーブルによる吊り構造の軽やかな施設。外から見るだけでなく、中を人が通り抜けることもできて、鳥を観察しているのか、鳥に観察されているのか・・・という逆転をもたらす仕掛け。プライスという人のユーモアを感じさせる鳥籠だ。

展覧会を一通り見終わってから、改めて入口のタイトル部分の横に便箋大のセドリック・プライス在りし日の写真が添えられていることに気づいた。お腹が出た穏やかなイギリス紳士という風貌。AAスクールで教鞭もとっていたというから、彼の思想を継承する建築家はきっと多いはずだ。そして40年も昔のアイデアが、時代や技術や人々の生活の経過に沿って受け継がれ、現代建築に基盤になっているんですね。10月9日まで開催されているようなので、ロンドン行きの計画のある人は、是非足を伸ばしてみてください。

yasuko092701 yasuko092702 yasuko092703 yasuko092704 yasuko092705

カンボジアからうれしいお便り

ロンドンで起きた同時多発テロにすっかり話題を取られてしまったG8サミット主要国首脳会議(グレンイーグルズ・サミット)ですが、今サミットの主要課題の一つは、アフリカ諸国への支援対策でした。アフリカでは、未だに政情不安な国家が多く、内乱、飢餓、難民、伝染病などなど、悲惨なニュースが伝えられています。そしていつも弱い者――女性や老人、子どもが犠牲になることも・・・。

昨年のちょうど今頃、1冊の写真集の企画編集に携わりました。タイトルは『地球はこどものあそび場だ・・。』 世界文化社より出版され、世界中の優れた遊具を紹介しているボーネルンドが、創立25周年を記念してスポンサードしました。フォトグラファーは、アメリカでジャーナリズムを勉強し、タイム・マガジン社で修行を積んだ中西あゆみさん。彼女はライフワークとして世界中の子どもと遊びをテーマに写真を撮り、取材しています。

この仕事のご相談をいただいてから、たくさんの写真集を見ました。特に子どもをテーマとした写真集です。「子ども」というだけで、私たちは特別な何かを感じます。戦争の悲惨さも、家族の幸福も、生きることの力強さも、愛らしさや弱さも・・・被写体が子どもであると、作り手のメッセージは何倍も大きく膨らんで私たちに伝わってきます。だから、戦争や紛争、テロや飢餓が耐えない今、特にアフリカや発展途上国を背景にした子どもの写真というと、どうしても悲惨さがクローズアップされてしまうのは当たり前です。

けれども、編集作業の中、莫大な量の中西さんの写真を見ながら、私たちは子どもの逞しさと強さを感じ取りました。例えば、カンボジアでは家計を助けるためにゴミ山でゴミ拾いをする子どもたちがいました。ところが彼らはゴミ拾いと家事の合間に、ゴミ山の近くにある小さな原っぱでゴム飛びを楽しんでいる。同じく、カンボジアのキッズ・ケア・カンボジア。ここはエイズに感染した子どもたちの集団生活の場。熱を出して横になっている女の子のそばで食事を摂る子どもたち。おやすみ前のひととき、マットレスの上でデングリ返しをしてはしゃいでいる子どもたち。他にも、貧しい家計を支えるために仕事をしたり、妹弟の面倒を見たり・・・世界中にはなんて多くの逞しい子どもたちがいることでしょう。そして彼らは、自分たちで遊びのルールや道具を作って、寸隙をぬって遊ぶことを楽しんでいる。玩具やTVゲームがなくても、創意工夫で遊びや玩具をデザインし、家事や手伝いさえも遊びに変えてしまうその逞しさには脱帽です。

そして、嬉しい知らせが届きました。取材に協力してくれた子供地球基金を通して、数枚の写真が送られてきました。カンボジアのキッズ・ケア・カンボジアの子どもたちが、写真集を喜んで眺めている写真です。実際に現地で撮影を行った中西さんは、「いつ発病してもおかしくない子どもたち。みんな元気にしているかな」と気にかけています。

久しぶりに開いた『地球はこどものあそび場だ・・。』からは、子どもたちの甲高い歓声が聞こえてくるようです。

写真集詳細は、▼ ボーネルンド子供地球基金

050719_1 050719_2 050719_3 050719_4 050719_5 050719_6

※写真協力:子供地球基金

ナシ族のトンパ文化、トンパ文字-日本人のルーツ? ナシ族の街・麗江を訪ねて<2>

「桃源郷」「シャングリラ」という言葉を知っている人は多いと思います。麗江周辺の地域こそ、この理想郷であると言われています。確かに、標高2500メートルの高地、空は限りなく青く、空気は澄み、玉龍雪山から流れる玉龍川の水は透明で、花々は咲き乱れ、年間を通して穏やかな気候、こんな恵まれた土地に暮らす人々は穏やかで優しく、少しシャイで、異郷からやってきた旅人にとって、まさに理想郷であったに違いありません。そしてこの理想郷の住人がナシ族の人々なのです。

ナシ族はトンパ教という原始宗教を中心に独特の文化を築いてきました。そして文化の中心にいるのがトンパ(東巴)と呼ばれる長老たちであり、彼らが使っているのが世界で唯一といわれる象形文字、トンパ文字です。トンパ文字はグラフィックデザイナーの浅葉克己さんが紹介しており、私たちにとっても馴染み深い文字ではあります。今回の旅の案内人である王超鷹さんも長年トンパ文字を研究しており、その成果を出版という形で日本でも広く紹介しています。

象形文字であるトンパ文字で書かれた文献や看板は、まるで一枚の絵のようです。同じ文字であっても色や書かれる位置によってその意味が変ってきます。例えば「人」という文字でも、赤で描かれていれば心の暖かい良い人、黄色であればお金持ちの人という意味が含まれるそうです。また、トンパ文字は用紙の左上から順を追って書かれますが、文字の位置や並べ方によって文章の内容が変ってきます。それだけ、意味しているものの含みが大きく、読み手の想像力が膨らむ文字であるといえます。

編集という仕事に携わる私にとって、文章を書くという行為は、自分の意思や考えを的確に正確に伝えることを第一とします。相手に誤解を与えないようにとか、自分の思いを可能な限り正確に伝えようと努力するわけです。ところが、トンパ文字は何かを伝えるという目的ももちろん重要なのですが、メッセージをどのように受け取るかは読み手である相手に委ねている部分が多いために、イメージは限りなく膨らんでいくのです。

デジタル技術の発展に伴い、情報はテキスト、ビジュアルイメージ、データ、サウンドなどマルチに融合されて高密度化しています。そこには読み手、受け手が自分なりの想像力を膨らませたりする隙間はありません。私たちは緻密に設計された情報をそのまま受け入れ、どんどん消費していきます。

一方で、含みの多いトンパ文字は、情報の正確さという点では劣るかもしれませんが、託された書き手のメッセージを読み手はどう受け取るか・・・麗江周辺の広大な自然に負けないくらいの雄大さ、大らかさがあります。このようなある種あいまいな文字を使いながら平和に暮らしてきたナシ族の人々の、心の大きさをうらやましいと感じるわけです。また、どんどん高度化、精密化するデジタル情報の中に、トンパ文字のような大らかさが組み込めないものか、とも考えるわけです。

ちなみに王さんは、トンパ文化研究所に滞在し文字の研究を行い、現在も保存活動に深く関わっています。

IMG1071 IMG1078 IMG1087 IMG1142