パリ<3> パレ・ド・トーキョー

1937年のパリ万博の際に建てられた「Palais de Tokyo」が、現代美術のギャラリーに生まれ変わったという噂を聞き、訪ねてみた。場所を調べると、セーヌ川を挟んでケ・ブランリー美術館のちょうど真向かい、橋もあって気軽に立ち寄れる。中は、元万博会場だったというガランとしたラフな空間で、余計な手が加わっていないところに好感が持てる。

ちょうどランチタイムだったので、付属のカフェ・レストランで先ずは腹ごしらえ。メニューには東京を意識してか、アジアンテイストとフレンチが融合した料理も含まれる。周りを見渡すと、大笹の葉っぱの円柱がそびえるやたら派手な料理を注文している人が多いので、それにトライしてみた。その中身はカレーで、大皿の中央に笹に包まれたご飯が鎮座ましまし、その周辺にカレー味の肉のソテーがある。食す時には笹の葉を外すのだが、ご飯がバサッとカレーの上に散らばる様子は、個人的にはいただけなかった。でも、休日だったせいもあって家族連れが多く、子どもたちがこの笹のパフォーマンスに歓声をあげる様子を見ていると、小さな幸せを分けてもらったという感じ。

さて、食後、ギャラリーへ移動。当時は「the third mind」という企画展が開催中。レストランは混んでいたが、こちらは人影も疎ら。サクーッと展示作品を眺め、ミュージアムショップに。ショップは東京を意識したものだ。日本のコンビニにあるガラスの冷蔵庫をディスプレイ台に見立て、中に渋谷や裏原宿あたりで売ってそうな蛍光色のグッズが、蛍光灯に煌々と照らし出されている。この人工的なフラット感が、フランス人にとって現代の東京のイメージなのだろうか。 パリを歩いていると、フランス人の日本文化に対する視点が二極化していることを感じる。ひとつは、陶器や漆、生け花、禅(禅は一種のブームのようですね)といった伝統的日本、もう一方は先のミュージアムショップのようなフラットな日本のポップカルチャーだ。でも、どちらも先端的美意識として受け取られているように思う。 そういえば、今回、最近人気のレストランを紹介してもらって出かけてみたが、フランス料理に、わさび、ゆず胡椒、海苔、醤油、ポン酢、味噌、紫蘇などの日本の調味料やハーブがふんだんに盛り込まれていて、フランス料理のイメージがちょっと変わってしまった。それにショップに入ると、いきなり「お寿司好きです」とか「一度、東京に行ったけど、素晴らしかった」とか、私が着ている服に「それとってもすてきね。日本のブランド?」だなんて、スタッフが気軽に声を掛けてきてくれる。こんなこと、10年前にはなかったと思う。これも日本が、製品だけでなく、文化を発信し始めたことに起因しているのだろう。

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パリ<2> ケ・ブランリー美術館

パリの素晴らしいところは、中世から、19世紀後期のオスマン男爵による都市改造をへて、現代に至る歴史的遺産や街並みの美しさもさることながら、未来に向けての都市や文化的な投資が目に見える形で実行され、誰もが公平に楽しむことができることだろう。

新しい美術館ができ、ルーブル、オルセー、オランジュリーといった超有名美術館でさえ、時代に合わせて改築や拡張といったメンテナンスと目配りを怠らない。古きよきモノを残しながら、新しさへのチャレンジを忘れない行動力が、世界中から観光客を惹きつける原動力になっているのだ。・・・ということで、ジャン・ヌーベルが設計、2006年にオープンしたケ・ブランリー美術館を訪ねた。エッフェル塔の袂、セーヌ川に面した素晴らしいロケーション。美術館事体は巨大なレンガ色の竜が舞い降りたかのような斬新な姿だか、セーヌ川からみると透明ガラスを通して、敷地内のダイナミックな植栽はランドスケープがあって、ギリギリのところでパリの景観と調和を保っている。展示物はアフリカ、アジア、中南米などの民族芸術の数々。 外観もユニークだが、内部も今までの美術館とはまったく異なり、自分自身が映画の主人公になって摩訶不思議空間をさまよっているかのような構成だ。エントランスには巨大なガラス製の円柱がある。中にはスチール製の棚に所狭しと作品が陳列されている。たぶん、普通の美術館ではバックヤードに当たる所蔵室を、巨大なガラスの円柱として表に出すことによって、保管そのモノを見せてしまおうという逆転の発想なのだろう。整然と保管されている作品からは、きちんとショーケースに納められスポットライトも当てられた作品とは一味違った印象を受ける。そもそも、ここの展示品そのものが道具や古着やお面といった類のものなので、きちんとショーアップされないと、僻村の倉の中で見捨てられた古民具といったわびしさもたたえている。美術館や博物館にとって、空間や展示手法がいかに重要なのかを改めて考えさせられた。

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パリ<1> 2つのTOY展

2007年末、急に思い立って4年ぶりのパリに出かけた。

パリはやっぱり魅力的。先ず、シャルルドゴール空港の建築からして素晴らしい。JALやエールフランスが発着するシャルルドゴール2のFターミナルなんて、下り立ったその瞬間から、この国の美意識と洗練を感じさせてくれる。これで、タクシーでもバスでも電車でも、40分ほどでパリ市内につけるのだからありがたい。それに比べて・・・・・・、日本も観光立国を目指すなら、国際空港の立地や空間デザインをもっと考えてほしいものだ。

さて、いつもだとパリでの自由時間は、展覧会や美術館見学とお買い物が半々なのだが、1ユーロ=167円となると物欲もしぼんでしまう。そこで今回は、外も寒いし、展覧会や美術館を見まくり、フランスの冬の味覚を堪能することにした。

友人と子どものためのトライプラス “http://www.tri-plus.com/” という会社を立ち上げて7年、子ども関係の製品企画、本の編集、雑誌への投稿など仕事もあるので、海外に行った際には情報収集にも気を配る。そこで、何かないかなあとネットで検索したところ、国立装飾芸術美術館とシャイヨー宮内の「建築と文化遺産シテ」で、TOYをテーマとした企画展が開催されていることを知った。

前者は「TOY COMIX」と題した小さな展覧会で、コミック(日本ではマンガやアニメ)のキャラクターがおもちゃ(グッズ)化されて、その結果どんな世界観を生み出しているのかをウインドーディスプレイのような華麗な展示で見せてくれていた。いわゆるメルヘンの世界や日本のオタク文化とは違っていて、ユーモアをたたえながらも美的で、おもちゃをテーマに国立美術館の見世物に仕上がっているところが流石だと思う。

後者は最近リニューアルされた「建築と文化遺産シテ」の付属ギャラリーのようなところが会場だった。「建築と文化シテ」の2階は、20世紀以降の画期的な建築技術と建築作品の博物館になっていて、コルビジェのマルセイユ・ユニテダビタシオンの1分の1の再現をはじめ、さまざまな模型やスケッチが展示してあり、建築好きなら時間を忘れて見入ってしまう内容になっている。これだけきちんとした公営の建築美術館があるところ、やはりフランスの文化政策の篤さを感じさせてくれる。

さて、展覧会は「la villa de mademoiselle B」というタイトルで、10人の女性建築家が、バービー人形のための空間をデザインするというもの。それぞれにおもちゃ箱をひっくりかえしたようなキュートでカラフルな夢の家を提案してくれている。その上、共通の展示ケースにミラーが多用されており、見入っていると空間がぐるぐる回りだすような錯乱状態になり、女の子のカワイイパワーをより一層アップするのに効果的だ。ポップカルチャーの展示が公立美術館で行われるのだから、フランスの文化の幅も広いのですね。このギャラリーの階段室はオレンジとピンクの塗装仕上げです。

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アメリカ サンフランシスコ

2005年にオープンしたゴールデン・ゲート・パーク内にあるデ・ヤング美術館を訪問。

北京オリンピックのメインスタジアム、通称“鳥の巣”、日本ではプラダブティック青山店などで知られるスイスの建築ユニット、ヘルツォーク&ド・ムーロン設計。印象的だったのは、坪庭のようなインガーデンとその今まで見たことのないようなユニークな植栽、照明や家具などインテリアへの気配り・・・、展望台からのサンフランシスコの眺め。寄贈者(企業)の名が彫込んであるベンチなどの家具類。サンフランシスコにいらしたら、一度はお出かけください。

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アメリカ サンタフェ

アメリカ、ニューメキシコの州都アルバカーキーからクルマで90分ほどのところに、サンタフェの町はある。かのジョージア・オキーフはこの町の郊外に暮らし、数々の名作と孤高の芸術家としての伝説を残した。多くのアーティストを惹きつけるサンタフェは、全米でも屈指のアートスポットであり、観光地だ。

ところが、飛行場からサンタフェへの道の途中に、「ロス・アラモス」という道路標識を見つけた。そう、第二次世界大戦中、オッペンハイマーを中心にした原爆開発のための「マンハッタン計画」の拠点となったロス・アラモス研究所のある場所だ。この道路標識を見るまで、サンタフェとロス・アラモスがこんなに近い場所にあるとは知らなかった。かつては、ネイティブアメリカンしか暮らしていなかっただろう茫漠たる荒野。こんな場所で、世界初の原爆が開発されたのだ。

荒野に位置するサンタフェはまるでオアシスだ。瀟洒なホテルやレストラン、ギャラリー、インディアンの工芸品を売る数々のショップが整然と建ち並ぶ。なんという植物の香りなのだろうか、セージのようなすがすがしい香りが風に乗って町を吹き抜ける。

旅の二日目に、やはりクルマで90分ほどのところにあり、世界遺産タオス・プエブロ、かつてネイティブアメリカンのプエブロ族の集落に出かける。集落はこの土地独特のアドビ様式(地元の赤い土に水と藁を混ぜ合わせて、乾燥した煉瓦を積み重ねる)で、吸い込まれそうな青空とのコントラストが美しい。現在はかつての住居の一部がショップやギャラリーになっており、プエブロ族の子孫が商いを営んでいる。今では、5家族ほどしかここには暮らしていなそうだ。

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トルコ〈4〉~番外編~ トルコ絨毯と焼き物

旅の醍醐味といえば「観る、食う、買う(お土産を)」だろう。その点もトルコは優れている。5000年の歴史が育んだ伝統工芸が数多くある。絨毯やキリム、布製品、陶器類、楽器、象嵌細工製品などなどだ。

絨毯やキリムも産地によって図柄や織り方に特色がある。カッパドキアへの経由地であるカエセリという町が絨毯産地のひとつであることを知っていた私は、カッパドキアの個人ガイドさんに、”I am interested in Turkish carpet “ という一言を思わず漏らしてしまった。すると待ってました!とばかり「素晴らしい店がある」と案内されたところが、実際に素晴らしかった。

そこは国認定の「絨毯研究所・兼・工場・兼・職業訓練所」のような一種のNGOのような組織で、作り手である女性たちの技術向上や収入保証なども行っている。訪問者のために、糸紡ぎ、染め、織りなどを工程にそった見学コースがあり、最後には畳50帖ほどの広間があって、気に入った絨毯があれば即購入することが出来る。・・・というよりも、ほとんどの訪問者は、買わなくてはならないという心境にはまり込んでしまう(のは、私だけだろうか?)。何十という絨毯やキリムを見せてもらったが、ひとつ気になった柄があった。全体が黄色身を帯びており、全体にさまざまな動物の柄が織り込まれている。どこの絨毯屋でも見かける柄だったので質問してみると、「これは旧約聖書のノアの方舟伝説が残るアララト山脈のワンという町で作られている方舟伝説にちなんだ柄。黄色身を帯びているのは、そこが黄色の生糸の生産地だから・・・」だそうだ。もちろん、絨毯は購入した。

カッパドキアでは、洞窟内にある陶芸工房にも行った。ちょうどアメリカのテレビ番組が取材をしていて、町一番といわれる職人さんのデモンストレーションが行われていた。陶器の種類や柄、形もさまざまで、どれも魅力的だった。白地のシンプルな食器と組み合わせれば、楽しい使い方ができるかも・・・と思って、高価な皿を思わず購入してしまった。夫に制止されなければ、6枚セットで買っていただろう!

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トルコ〈3〉 イスタンブール

最後はイスタンブール。かのオスマントルコの帝都だけあって、トプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスク、グランバザール、地下宮殿などなど、見所たくさん。もちろん博物館・美術館も多い。

イスタンブールもマルマラ海、ボスポラス海峡、金角湾に面した海洋都市。心惹かれたたのは、街に点在する日常的な空間の豊かさ。イズミールと同様、気持ちの良い海岸線は、公園、船着場、マーケットや住宅など、生活の場として開放されている。喫茶文化も豊かで、喫茶のための空間が街の至ること箇所にあり、出前システムが整っている。トルコティ、トルココーヒー、水パイプ、甘い菓子類、お茶のためのポットやカップなど道具も豊富だ。喫茶の文化は、その国の歴史的・文化的な豊かさを図るバロメーターだし、自分のためにわざわざお茶を入れてくれるという心使いが嬉しい。十数年前に行ったベトナムのメコンデルタ地帯の農村でも、欠けた器に茎茶をいれてくれた。中国人も気軽にお茶を振舞ってくれる。イギリスの紅茶、ラテンな国々のカフェやバル、世界中に豊かな文化が息づいている。日本だって、世界に冠たる喫茶文化を築き上げた。私も10年ほど裏千家のお茶を習った。ところが今、ちょっとの時間が惜しいと。ペットボトルからお茶を注ぐことも多い。これって、何だか変?

今回の旅では、デジタル一眼レフカメラを買って、写真を取り捲るぞ!と勢い込んで出かけた。コンパクトカメラよりも撮る喜びは増した。観光客が持っているカメラもキヤノン、ニコン、ソニー、パナソニック、リコーなどなど日本製品がほとんどで、日本人として妙に嬉しかった。が、やはりトルコは観光国。観光客は圧倒的に団体客が多く、ほとんど全員がカメラを持参して、一時にどっとやってきて、ここぞ!というスポットで写真を撮りまくる。ここぞ!というスポットでは、静かに佇んで美しい風景や祖先が残してくれた文化遺産を心から堪能したい。しかし観光客の「記念写真を撮らねば!」という強迫観念が、ゆっくりしたい旅人の喜びを奪っていると思う。カメラという道具ができて、確かな思い出を手にいれ、旅の楽しさを他人と共有することができるようになったが、そこに居る時間、空間を楽しむという旅の醍醐味はどうしたの? それなりのマナーも欲しい。写真を撮りまくるぞと思っていた自分だが、ここぞ!という瞬間を撮影しそびれている。それは、団体客の勢いに圧倒されたことと、やっぱレンズを通してではなく、自身でその瞬間を体感したかったからだろう、と思う。

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トルコ〈2〉 カッパドキアと地中都市

イズミールからイスタンブール経由で、カッパドキアへの起点カエセリ空港へ。このあたりは中部アナトリア地方と呼ばれる高原地帯。BC15世紀(資料によってはBC20世紀とか、古すぎて起源が特定できない)には、ヒッタイト帝国の領土として栄えていたそうだ。

カッパドキアは街ではなく、地方の名前。拠点となる町が4つほどあり、その周辺に有名なキノコ岩、洞窟住居、地下都市が点在しているが、お散歩気分で回るのは無理。自転車で頑張る人もいたが、相当根性が要りそう。普通はツアーに乗って団体行動するか、レンタカーを借りるか、高いけど個人ツアーやタクシーを頼むか、効率的ではないけどバスを乗り継ぐが、という選択肢になる。

ルドルフスキーの『驚異の工匠』の読後、ずっと憧れていたカッパドキアの台地を踏んだときは感動もひとしお。夜の9時を回っていたが、漆黒の夜空に満月、クルマやテレビなど人工音のまったくない世界、ホテルは洞窟、カッパドキア産ワインで乾杯。・・・はるばる来た甲斐があった!

次の日、個人ツアーを頼んで、日本語を含む4カ国語を話すトルコ人のガイドさんに見所に連れて行ってもらった。いろんなところを効率的に回ったが、ヒッタイト人が敵に攻め込まれたときのために造ったという地下都市、ギョロメ谷の岩窟教会群(中国敦煌の莫高窟のキリスト教版)などが、やはり人間のとんでもない内なるエネルギーを感じるという点で圧倒的。

地下都市は、最近ITの進歩のお陰で重力から開放されたような自由曲線の建築が出現してきているが、引っくり返り度はこちらの方がすごい。空間の縦横無尽ぶりは、ある朝突然虫に『変身』したザムサのごとく、蟻んこになって蟻の巣に迷い込んだような気分を思う存分楽しめる。外に出ると、ガイドさんが向こう側にある小高い丘を指して「あの丘だけ形が違うでしょ? あれは地下都市を掘ったときに出てきた土砂の捨て場所ですよ」。戦争という非常事態の時のために、こんなとてつもない大工事を実行するなんて、スゴイ。

ギョロメ谷にある岩窟教会も負けていない。巨岩を穿ち、壁面を漆喰で整えて、空間中に信仰の対象を描く。地下都市もそうだが、いったいどんな道具を使って掘り進んだのだろう。こうした教会が大小30もあるのだそうだ。ローマ帝国の弾圧から逃れてきた修道士がカッパドキアに来たのは3世紀頃だという。彼らはどんなことを想って、ここに暮らし、岩を穿ち、聖人たちを描いたのだろうか。

エフェソスでも個人ガイドを頼んだのだか、2人とも話しの始まりが5000年前からだった。その間、ヒッタイトだの、バビロニアだの、ペルシアやギリシアなどなど、歴史の復習のようだったが、彼らは現代でも5000年の歴史と暮らしているのですね。スゴイ!

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トルコ〈1〉 生活都市イズミール

デザインに関わる仕事をしておきながら、最近、個人で行く旅先には「世界遺産」なんて、悠々自適のシニアが行きそうな場所を選んでしまう。それも、辺境の地にその栄華の痕跡を残している古代遺跡とか、なんでこんなところにこんなものを?という、荒唐無稽なモニュメントなど、人間の内なるエネルギーの強さを実感できる世界遺産だ。さらに、そこに辿り着くまでの移動時間や交通の不便さが大きいほど、感動も大きい。やはり、感動は「楽」しては得られないのかな?

さて、この夏は、トルコに行ってきました。

トルコ。特にカッパドキアは、学生時代にバーナード・ルドルフスキーの『驚異の工匠たち―知られざる建築の博物誌』を読んで以来、絶対に行きたい場所のひとつだった。ところがトルコは、国土は日本の約2倍、各都市間の主要交通は長距離バス。また、国中に世界遺産はもちろん魅力的な遺産や都市が点在していて、10日程度ではとても回りきれない。・・・ということで、迷いに迷って、イスタンブール、エフェソス(イズミール)、カッパドキアを厳選。都市間移動は飛行機を使うことにした。

最初の訪問地はイズミール。5000年以上の歴史をもちながら、1919年~のギリシアとの争いで戦禍に会い、現在、街中には歴史的建造物の類はほとんど残っていない。しかし、エーゲ海に面した温暖なトルコ第三の都市だ。

まったく期待していないイズミールだったが、生活都市としてはとても魅力的だった。街は中心部から海岸線に沿って左右に広がり、その水際のほとんどが広々とした公園になっていて、対岸を結ぶ主要交通機関は定期船。晩夏という時期もあっただろうが日暮れ近くなると、市民が家族や友人と海辺にやってきてピクニックに興じる。公園に沿って何十件というレストランやカフェが軒を連ね、夜遅くまで食事を楽しむ。地中海に面してエアーコンディションが普及していないイズミールは、夕方になると気温も下がって快適そのもの。夜の8時頃、地中海に沈む夕日を眺めながらのワインやビール。イズミールの人々はこんな至福な時間を日常的に楽しんでいるのだ。もちろん、街には旅行者立ち入り禁止の、貧しく、それだけに危険な地域もある。しかし、この地域の住民だって、2,30分も歩けば海辺にやって来ることはできる。夕陽を眺めながら、持参したお茶を飲むために料金はいらない。期待薄の街だっただけに、イズミールの日常的な豊かさは心に滲みた。

2日目に、イズミールからクルマで90分ほどのエフェソス遺跡を訪ねる。古代ギリシア・ローマ時代の遺跡でお決まりの屋外大劇場、超有名なケルスス図書館、対岸のエジプトからやってきたクレオパトラが下船して歩いたというアルカディアン通りなどももちろん素晴らしい。大理石に刻まれたギリシア語やラテン語のレリーフ、タイプフェイスの美しさも記憶に残る。

行ってみて驚いたことが2つ。ローマ時代には海に面していたエフェソスだが今は土が堆積し、海岸線は5キロも先になってしまっている。2000年という時の流れは地形を変えるほどの歳月なのだ。もうひとつは、エフェソスの発掘はまだ途中段階で、現在はただの丘に見えるその土の下には、まだまだ華麗な古代遺跡が眠っているらしい。そういえば、マチュピチュ遺跡も発掘が続けられ、年々の遺跡の規模が拡大していると聞いた。

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インド建築ツアー<6> デリーでの半日だけの解放

ダッカから、カルカッタ経由で、この旅の最後の宿泊地デリーに着いたのは、夜10時頃。皆で旅の無事を祝って最後の晩餐をする予定だったが、レストランはどこもすでにクローズ。仕方なく、24時間オープンのカフェテリアで、ハンバーガーやフレンチフライを摘む。

そして最終日、早朝から真夜中まで、ただひたすらコルビュジェとカーンの建築を訪問していたツアー面々に与えられた自由時間はたったの半日。この短い時間では、やり残している、ショッピング、街の探索、アユーラベーダのエステ、究極のインド料理堪能のすべてをこなすことは到底不可能。泣く泣くアユーラベーダを諦め、さっそく街へ。ところが、日曜日なので一般的な商業施設はどこも閉まっている。

それでもめげず、まずは1時間程度で見学できそうな「ジャンタル・マンタル」(天文観測所)へ。このような天文観測所はジャイプールのものが最大で、他にもウジャイン、バナーラス、マトゥラーなどインド各地にある。これらは18世紀初頭にジャイプールの街を造ったジャイ・シング王によって、天文観測のために建設された。日時計、子午線議、照準議などの建造物は同時に表現主義的建築のような魅惑的な造形物でもある。

さて、デリーの「ジャンタル・マンタル」は、現在は公園施設のようで、インド人であれば無料、外国人は幾らだったか忘れてしまったが、インドの物価からすると結構な料金を支払わされた。しかし、園内はきちんと整備され、今から300年ほど昔のマハラジャの夢を体感できる。それにしても、ここで「かくれんぼ」をしたらさぞかし楽しいだろうなあ。

経済発展が期待されているブリックス(BRICs=ブラジル、ロシア、インド、中国)の一国として注目されているインド。そんなインドが経済発展ばかりでなく、今後、インド人による、インド人のための、どのようなインド建築(文化)を生み出してくれるのようでしょうか? アユーラベーダをやり残しているのでもう一度インドを訪問したい私は、コルビュジェとカーンの建築を見終わって、そう想うのでした。

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